我が開業奮闘記
銭湯のある街の風景。以前は街のどこかで必ず見られた風景だが、最近はな
かなかそうもいかないようである。調べてみたら、今ではこの鎌倉旧市街には
銭湯はもう一軒しかないそうである。僕が子供の頃は覚えているだけでも四、
五軒はあったのではないかと思うので、ずいぶんと減ってしまっているようだ。
家風呂が当たり前になり、時代の流れとはいえ何とも寂しいものだ。
何を隠そう我が家も祖父母が鶴岡八幡宮よりの若宮大路で「松の湯」という
銭湯を営んでいた。鎌倉に来たことのある方の中には戦後から約15年ほど前に
廃業するまでかなり長い間あったので覚えている方もいらっしゃるかもしれない。
もし、近隣の方で行ったことがあるという方がいれば、それは本当、嬉しいことである。
当時は近所に住んでいる人から若宮大路や小町通りの飲食店で働く人、横浜国大
の寮の学生など銭湯は正に老若男女が集う小さな社交場であった。
小さい頃から僕の社会は学校と家庭、そして大人の社会を学んだのはなんと
言っても銭湯であり、今では死語かもしれないが、まさに僕の「青春」は学校
生活ではなく銭湯生活ありきだった。引退した祖父に連れられ銭湯へ行くまで
の道で聞いた戦争の話など色々な話が記憶に残っている。小学生ぐらいになる
と一人で始まる前に銭湯に行き、一番風呂を待つ常連の人達と銭湯の前で始ま
るまでのひと時の会話に大人社会を垣間見たり、湯船を水で薄めた瞬間に「こ
らー、風呂を薄めるな!!」、たまに友達と一緒になり喜んでいると決まって
「風呂で騒ぐな!!」と怒鳴られビクビクしながら入ったのも今では懐かしい
思い出である。そんな今ではいなくなってしまった頑固なお年寄り達との交流
から僕は社会を教わった。高校生になる頃には少し年上の人達の学校では聞け
ないちょっと大人の世界の話が聞きたくて、学校は毎日のように遅刻してもお
風呂には必ず皆が来る時間に合わせて入ったものだ。そんな銭湯生活から学ん
だ多くの経験は、今ではなかなか経験できない貴重なものになってしまった。
昔から当たり前のように見ていたお風呂に入り帰っていく人達の気持ちよさそうな
笑顔と、自然と口にでる「ごちそうさま」の言葉が懐かしい。そんな自分なので
地域に育てられたとの思いが強いのも当然かもしれない、いつかは鎌倉に戻り
地元のために働きたいと思っていた。2007年から自宅のあった雪ノ下で始めた
クリニックには、壁に大きな富士山の絵こそないが、人が自然と集まってくる銭湯
のようなクリニックを目指し、いつかは来た人が「ごちそうさま」と帰って行く、
そんなクリニックを夢見て、毎日、診療を行っている。